「私達は神様から見てダイヤモンドのように価値があり、かけがえのない存在です。」これは、ビクトリアにあるプロテスタントの教会の福音の紹介文です。主イエス、またパウロなどの使徒たちが、もしこのような福音宣教をしていたら、果たして迫害を受けたり、十字架の上で殺されたりされたでしょうか?そこには、十字架、罪、さばき、神の怒りなどの福音の核に直接つながる理由は2次的なものとして扱われ、ただ神の愛にのみフォーカスが置かれています。このような福音宣教は聖書に忠実なのでしょうか?この福音の理解が生まれた理由の一つとして、今回はその説明を踏まえつつ、この奴隷シリーズを見ていきます。
この「奴隷」のシリーズでは、過去400年以上に渡って、私達の目から隠され、「しもべ」と誤訳されていたギリシャ語のdoulosという言葉について見てきました。前回の奴隷としもべの大きな違いで、奴隷としもべの意味の違いについて触れて、その奴隷の身分は過去、現在、未来の全ての神の民、またクリスチャンに当てはまるということを見ました。今回は、その対義語となるkyriosというギリシャ語について触れた後、その当時の文化背景を見て、これらの二つの言葉の誤った理解が21世紀の福音宣教にいかに影響を与えているのかを見て行きたいと思います。
1. doulosとkyrios
そして「奴隷」という言葉を見た時、もう一つ無視してはいけない言葉があります。それは、「主人」という言葉です。主人をもたない奴隷は存在しないし、奴隷を持たない主人も存在しません。ギリシャ語で、奴隷doulosということばと対になっている対義語は主人kyriosです。
このkyriosという言葉は、基本的に、土地や奴隷などの所有物に対して絶対的な権力を持つ者を指す言葉です。生命与奪権を持っているほどです。それが、kyrios主人の権限です。奴隷はこの主人に対して、無条件に服従する義務があるわけです。
そして、このkyriosという言葉は、私たちがいつも使っている言葉です。それは、「主」です。キリストは私たちの主です。つまり主人です。主イエスという時、私達は、本当にその意味をこめて使っているでしょうか?「主よ。主よ」と口だけでいっているのでしょうか。
それとも、ただ「何々さん」のようなタイトルでしょうか。「主よ。主よ」と口だけでいっているのでしょうか。イエスは、「主よ。主よ」と言う者がみな、天の御国に入ることができないと警告されています。ローマ10:9で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はキリストを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われます」とあります。本当に救いの恵みに預かるためにも、聖書の教える意味で「キリストは主です」と告白しなければいけません。キリストが主ですと告白する事は、私たちはキリストの奴隷ですと告白することです。これからは、自分のためにではなく、キリストに全てをささげ、従っていきますという告白です。
もちろんこれは、罪の支配下にある自分勝手な、生まれながらの人間には不可能です(エペソ2章)。だから、1コリント 12:3 御霊によるのでなければ誰もキリストを主という事はできないと教えているわけです。だから、神が引き寄せられないかぎり、だれも主イエスのところに来ることはできないとあるのです(ヨハネ6:44)。救いはただ神の恵みです。神に敵対し、神を憎む私達にあわれみを示してくださり、そして自分の行いや意思によっては救いに達することもできない無力な私達を愛してくださり、神はご自分の御子をお遣わしになられたのです。この事を理解せずに、この「奴隷」のシリーズを読む事は、戒律主義に入る危険性が有るので十分に気を付ける必要があります。しかしその一方で、その信仰告白のとおりに、主人であるキリストに従順に従うことを神は私達に要求されるのです。
2. 福音のメッセージのおろかさ
これは、今日、私たちが普段教会で耳にしている福音のとは異なるように聞こえます。福音を今の時代に受け入れられるよう、できるだけオフェンシブでなくなるよう、「神の愛」と「個人の幸せ」にフォーカスを置こうとしているからです。では、キリストが、また使徒たちが福音を語った当時はどうだったのでしょうか。当時の地中海地方では1200万人が奴隷で、約5人に1人の割合で奴隷という身分でした。奴隷には、自由がありませんでした。自分の望むことはまずできませんでした。主人が奴隷に「奴隷さん、あなたを幸せにするため、主人である私は何をすればよいですか?」と尋ねられる事はまずありませんでした。権利もなく、法廷で証言することもゆるされず、また正義を求めるため裁判にかける事もできませんでした。自分の力で市民になる事もできず、軍隊にはいることも、持ち物を所有することもできませんでした。その当時の宗教感では、その信者たちは、自分のことをその神の奴隷duolosとは言わず、神の友達philosと自分たちを指していたそうです。それほど、誰かの奴隷になるという概念はその当時の人たちに、哲学的に、また社会的にも嫌われ、奴隷はさげすまれていました。
だから、1コリント1:23には、「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかさでしょうが」とあります。考えてみてください、自分の民であるユダヤ人に受け入れられずに、十字架の上で死んだ1人のユダヤ人の男が神であり、全世界の救い主であられるというメッセージ以上に、唐突でおろかに聞こえるものはないのではないでしょうか。十字架につけられた雄のロバの頭をした人の前で礼拝している絵が遺跡で発掘さたくらい、実際に当時のローマ人たちにとっては、キリスト教はおろかなものでした。しかも、キリストは、絶対的な君主であり、みなを奴隷にするというメッセージは、個人の自由を大切にし、奴隷に対してさげすみしかない文化の中にいた当時の人たちにとっては、ばかばかしくて、簡単には受け入れる事ではありませんでした。しかし、「ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵」であり、また、「福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」とあります。彼らは、奴隷という意味をはっきりと理解していました。実際に奴隷であった人たちが大勢いた時代です。そこには、今の時代の「神との個人的な関係を持っていますか」という質問で代表されるような、あいまいさがありませんでした。しかもその当時、今私たちが理解しているのと同じような、虐待や、ひどい仕打ちがあったのも確かです。そのような文化背景の中で、パウロを含めて使徒たちは、神の力を信じて、当時の人たちのニーズに合わせてメッセージを曲げることなく、まっすぐに福音を解き明かしました。
今の時代の人たちに、キリストを信じてもらうために、罪、滅び、悔い改めを語らず、福音を水で薄めて、「キリストはあなたを愛していて、あなた個人の幸せを願っておられます。その神様と個人的な関係を持ちたいと思いませんか?」とだけ、伝えるべきでしょうか。神はまるで、ランプの魔人のように、私たちの夢や希望をかなえ、苦しい事から助け出してくれる方なのでしょうか。どちらが主人で奴隷なのかが分かりません。また、「キリストをあなたの個人的な救い主として受け入れてください。後で、キリストを人生の主として受け入れればいいですよ。」という事は本当なのでしょうか。
ルカ9:23-25に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て 、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」とあります。ギリシャ語で自分を捨てるとは、自分との関わりを絶つという意味です。これは、まさに奴隷のことばです。自分を愛する者はキリストについて行くことはできないという事です。「自分を愛する事を学び、隣人を愛することに生きる」とモットーにしている神学校があるのが今の時代です。一見するとクリスチャン的に聞こえはしますが、聖書のどこをとっても、自分を正しく愛する事を学びなさいとは、一言も教えていません。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という大切な戒めは、私たちはすでに必要以上に自分を愛している事を前提に教えられている事です。自分にばかり目を向けさす事は、逆に神から目を離させることになります。なぜなら、自分を愛する事自体が、人の罪の現れだからです。2テモテ3章には「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、―――神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であって、その実を否定する者になるからです。」と警告があります。今の時代を現すのにぴったりな、みことばではないでしょうか。それとは逆に、今まで自分のために生きていたが、これからは、キリストにすべてを明け渡し、従うということです。つまりキリストの奴隷になるという事です。神を私たちの願いを叶えてくれる私たちの奴隷とするのではなく、私たちがキリストの奴隷になるという事です。
面白い事に、ロシア語や中国語では、このduolosということばは、奴隷としっかり訳されているそうです。クリスチャンは迫害の元にあり、彼らは、自分の命を本当にかけているわけです。そのような中で表面的なクリスチャンは誰一人いません。だから、逆に奴隷と訳されても彼らは喜んで自分はキリストの奴隷ですと告白できるわけです。
キリストを信じて従うということは、自らがキリストの奴隷となるということを見てきました。今回は、奴隷の対義語である主人という言葉にフォーカスを置いた後、これらの言葉の理解がどの様に今の時代の福音宣教に影響を与えて来たかを見ました。次回からは、「キリストの奴隷である素晴らしさ1」と題して、奴隷である根拠を見ていきます。この主人と奴隷の関係を学ぶ事によって、キリストと私たちの関係について、この上もない祝福となる、クリスチャンの特徴である5つの真理を、聖書から見て行きます。もし良ければシェアをして下さると嬉しいです。
- 奴隷1:聖書の誤訳と真理の隠蔽?
- 奴隷2:本来の意味と誤訳の由来
- 奴隷3:奴隷としもべの大きな違い
- 奴隷4:奴隷と主人と福音のおろかさ
- 奴隷5:キリストに買い取られた者
- 奴隷6:主が求めることと、義認と聖化と律法主義
「完全なる生涯」と題して、イエス・キリストの、人としての地上での歩みを、1つの福音書としてまとめるシリーズを始めました。また、「みことばの糧」と題して、聖句の簡単な説明と共に、みことばの糧をビクトリアからお届けします。「みことばの意味がみことばである」をモットーに、聖書は神の誤りなきことばという見解に立つMacArthurスタディバイブルやESVスタディバイブルやReformationスタディバイブルなどの注釈を日本語訳にしています。日本語と英語で、Logos bible appsのイラストと一緒に味わって下さいね。
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